テモテ第二3章
3:1 終わりの日には困難な時代が来ることを、承知していなさい。
「終わりの日」は、五節の命令がテモテに対して語られていること、また、その中の人たちが家々に入り込んでいることは、現在進行形で記されています。既に終わりの日であるという認識のもとに記されています。
終わりの日には困難な「時代→時」が来ます。それを承知しておくように命じました。
3:2 そのときに人々は、自分だけを愛し、金銭を愛し、大言壮語し、高ぶり、神を冒涜し、両親に従わず、恩知らずで、汚れた者になります。
3:3 また、情け知らずで、人と和解せず、中傷し、自制できず、粗野で、善を好まない者になり、
3:4 人を裏切り、向こう見ずで、思い上がり、神よりも快楽を愛する者になり、
3:5 見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者になります。こういう人たちを避けなさい。
ここに列挙されている人々は、信者のことです。五節には、「見かけは敬虔であって」と記されています。信者でありながら、信じがたい状態になるのです。
・自分だけを愛し
自分の肉の満足を愛します。
・金銭を愛し
この世のものを愛するからです。
・大言壮語し
正しくは、あるきまわるごろつきのことで、彼の言うことを真に受ける、十分愚かな誰かに自慢します。
・高ぶり
神の言葉に従うのでなく、神の言葉を超えようとすること。
・神を冒涜し
不敬な、冒涜的な。
・両親に従わず
これは、大きな罪です。クリスチャンの中にこれが見られることは、残念なことです。神を敬うことを否定する行為です。
・恩知らず
文字通りに、神の恵みがない。感謝がないという結末になり、恵みがない。
・汚れた者
神聖であることに対して全く無視すること。
・情知らず
自然な愛情がない。
・人と和解せず
なだめることができない人
・中傷し
中傷する者。誤った告発。傷つけるための不当な非難。関係を断つための非難。
・自制できず
自制ができない。
・粗野で
飼い慣らされていない。
・善を好まない者
神の事柄に敵対する者。神の国の活発な敵対者。
・人を裏切り
裏切り者。
・向こう見ず
前に落ちている。抑えられない欲望や情熱によってもたらされる無分別。
・思い上がり
雲がかかったすなわち混乱した考え方。貧弱な判断力から来る道徳的な盲目。それはさらに、霊的な理解力の欠如をもたらす。
・神よりも快楽を愛する者
快楽を愛する者。神よりもは補足。快楽を愛したら、神は愛せない。快楽は、肉の欲から来ているから。
・見かけは敬虔であっても、敬虔の力を否定する者
敬虔がもたらす人を変える力、そして、御国の報いを相続させる力を否定する者。その敬虔は、人の努力ではなく、信仰によります。信じる者の内に主イエス様が働いていて、主と同じ者に変えるのです。それは、大いなる報いをもたらします。信仰によってそのようにされることを否定する者のことです。
誠実に見えるクリスチャンでも、信仰によってそれが得られると信じる人は、少ないと思います。真面目なクリスチャンほど聖くなりたいと考えますが、そのようなクリスチャンが口にする言葉は、自分は弱いものでそのようなことはできないとか、自分は罪深い者で聖くなれないとかいう言葉です。彼らは、自分の姿がよくわかっていますが、信仰によって聖くなることが可能であると信じないのです。もし、信じたのであれば、もはやそのようなことを言わないのです。
・敬虔の「力」→敬虔の「その人を聖化し、御国で報いを受けるように変える能力。主の力を適用することで可能」。
3:6 彼らの中には、家々に入り込み、愚かな女たちをたぶらかしている者たちがいます。その女たちは様々な欲望に引き回されて罪に罪を重ね、
3:7 いつも学んでいるのに、いつになっても真理を知ることができません。
彼らの中には、家々に入り込む者がいます。愚かな女たちを自分の教えの虜にするのです。神の教えに適わない様々な生き方をしている人々が列挙されていますが、そのような生き方をしている人が、自分と同じように生きるように教えるのです。女たちは、騙されます。愚かな女たちと言い、軽蔑しています。彼らがそのような考え方や教えを受け入れるのは、彼女たちの欲望によるのです。欲望の導くままに引き回されるのです。間違った教えが魅力的に見えるのは、彼女たちの欲望に適うからです。肉を捨てて生きようとするならば、肉に訴える生き方を拒むはずです。
そのように、欲望に引き回されている限り、いつも学んでいたとしても、いつになっても真理を知ることはできません。肉に従って生きている限り、真理を知ることができません。学んで知識があったとしても、真理を自分のものとすることができないのです。その意味で、知ることがないのです。
・「真理」→神の御心を行い、報いとして栄光を受けること。主イエス様がこの世に来られその真理を現されたが、信者もそれを倣う。
・「たぶらかして」→「捕虜にする」。虜にする。彼の支配の下に置いて逃さないこと。たぶらかすは、騙して惑わす。誘惑して本心を失わせる。色仕掛けもあります。しかし、ここでは、色仕掛けのようなことではなく、間違った教えの虜にしている様子です。
3:8 たぶらかしている者たちは、ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らっており、知性の腐った、信仰の失格者です。
女たちを惑わしている者たちは、自分が正しいとしている生き方を彼女たちに示し、あるいは語っているだけだと考えているかもしれません。しかし、彼ら自身が真理に従わないで、自分の肉に従って生きている生き方を他の人に伝えることは、真理に逆らうことであるのです。
例えば、会社で決められた規則を、その人の認識不足で守っていない場合があるのです。その人は、会社の規則に違反していると知らなかったとしても、その人の言動は、他の人達に規則を破らせるようなことをする場合があるのです。これは、会社にとって損失です。課長が規則を守っていないということになれば、影響は大きいのです。
それは、ヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように重大なことであるのです。彼らは、神による証しを損なおうとしたのです。
ですから、惑わす者たちは、真理に逆らう者であり、知性が腐っているのです。すなわち、神の御心を受け取る器官が腐っているのであり、神の御心を受け入れることができないのです。それで、信仰の失格者です。信仰は、神の言葉を受け入れ従うことを表していますが、神の言葉を受け入れる部分が機能しないのですから、信仰の失格者なのです。
彼らの問題点は、神の御心を正しく受け入れることができないところにあります。
・「知性」→神の御心を受け取る器官。
3:9 しかし、彼らがこれ以上先に進むことはありません。彼らの愚かさは、あの二人の場合のように、すべての人にはっきり分かるからです。
彼らがこれ以上先に進むことがないのは、彼らの愚かさがすべての人にはっきりと分かるからです。
私たちが本当に信仰によって真理に生きることをしていないならば、それは、その行動によって明らかになります。肉を現すのか、キリストを現すのかです。
3:10 しかしあなたは、私の教え、生き方、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、
3:11 また、アンティオキア、イコニオン、リステラで私に降りかかった迫害や苦難に、よくついて来てくれました。私はそのような迫害に耐えました。そして、主はそのすべてから私を救い出してくださいました。
パウロは、テモテに教えや生き方を通して、迫害の中を共に主に仕えました。そのようにしてテモテを訓練し、教えたのです。
そして、主は、迫害から救い出してくださいました。
3:12 キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
敬虔に生きようとする者は、迫害を受けるのです。
3:13 悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。
悪い者は、主の御心に従わない者たちです。詐欺師たちは、最初から人を騙す目的で働く者たちです。彼らは、騙したり、騙されたりしながら、ますます悪に落ちていきます。神の祝福を受け継ぐことはないのです。
3:14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、
そのような中で、学んで確信したところに留まることが必要です。それは、神の啓示を受けたパウロから聞きました。そして、聖書からも学んだことです。
3:15 また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。
聖書による救いは、敬虔に生きることで、真理を行い、報いを受けることです。聖書を学ぶことでそれが可能です。聖書を学ばない人は、真理に歩むことができません。その知恵をいただくことができないのです。
敬虔は、人の努力ではなく、信仰によります。信じる者の内に主イエス様が働いていて、主と同じ者に変えるのです。それが、キリスト・イエスに対する信仰です。人として歩まれたその方は、敬虔を現されたのです。その方が、人を敬虔に歩ましめるのです。それは、大いなる報いをもたらします。
3:16 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
3:17 神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。
聖書の幸いは、それが神の霊感によるものであり、人間的なものが一切ないからです。そして、教えと、戒めと、矯正と義の訓練のために有益なのです。これは、信者のために記されています。
それによって、神の人がすなわち、神のものとして用いられる人が全ての良い働きにふさわしく整えられるためです。神の人は、悪者たちのように神の用いることができない者たちと対比されています。